そのぬくもりに用がある





ひどく残念に思いました
と言うのも全て後の祭りです。

バカな自分が嫌になりました。
私が悪かったところはなんだったんだろうとか、
色々考えてみたり、
罵ってみたり、
消してみたり、
地に落ちてみたり、
全てを愛してみたり、
いろんなことをしてみたけれど、その全てが滑稽で、儚い夢のようでした。




自分の気持ちに素直になって文章を綴って良いのなら、



私はやはり負け犬で、

とても馬鹿で、

悲しい思いと損な役回りを自分で選んで生きているのだろうと思っています。


切なさとか悔しさとか悲しみをこうして吐き出すことでしか自分を確かめられないところも認めた上で書いています。

全てが全てそのまま伝わらないのはわかっている、誤解も語弊もあるのだろうけれど、たくさんの人に嫌われてしまうかもしれないけれど、これだけは気づいてしまったのでやはり、自分のためにも記そうと思うんです。


私には身体がある カルチャーじゃない

この言葉を、私は盾に使っていました。
しかし、私はカルチャーでした。
少なくとも一部の誰かには、カルチャーでした。
女の子、と言うカルチャー。私、というカルチャー。

自分で言うのもなんだけれど、破茶滅茶な毎日を送っていて、何かに括られるような、型にはめられるような生活を私は送れていません。

したくてそんな生活をしているわけではなく、私はひっそりと周りと同じような生活を送りたいと切に願っていますが、どうにもこうにもならないのです。
たとえば、指をミシンで縫ったり、車に轢かれたり、飛行機に乗り遅れたり。

気をつけて生活、というか平穏に暮らしたいという気持ちは人一倍あります。
だけど不可抗力で立て続けにこんなことが起こるので、自分で言うのもアレなんですけど、ドラマみたいにドタバタな生活を送っています。

その度に自分の根性や気合いで前を向いて歩いてきたつもりです。


それでも、私は唯一無二にはなれませんでした。(正確には、そんな言葉を信じ切ってしまって、勝手に喜んだり傷ついたりしただけなんですけど。)

カルチャーとして消費され、コレクションの1つになっただけだった。最初から。

それすら気付かずに、馬鹿だなって、馬鹿なんです。






信じるという言葉を、私の言葉で説明するならば、

君や物事が
今、目の前に見えている君、事である
ということを願うこと

だと考えています。近い簡潔な言葉だと期待ですね。


相手ありきの言葉のように見えて、本当は1人で完結しているのです。

自分を信じる、という場合でも、そこには、願う自分と願っている自分、がいる。しかしその全てが、願っている自分が抱く幻想、そうなると強く願う自分であり、とてもひとりよがりで、エゴの塊な言葉だなと、思います。



だから、信じるという言葉は、時や場合にもよるけれど、私にとってとても苦痛なものでした。
これを信じるハラスメントと呼んでいます。


信じる、という言葉の圧が強すぎる。
変に受け取りすぎなのかもしれないけど、
信じてるからね、と言われると、その信じられている私になれるかどうか不安になってしまう。
そうなろうとしすぎてしまう。


そして同時に、
現状は
相手がそうであってほしいと願っている私ではない
(相手にはそう見えていない)
ということも証明されるわけじゃないですか。



その圧が嫌じゃない人になら信じられてもいいけれど、圧が負担になるくらい、
幻想を押し付け、精神的にも、物理的にも擦り減らす毎日は私から願い下げです。


そして、言葉は色々な力を持つことを
わかってほしいし自分でももっとわかりたい。


こんなことこんなとこで言ったって意味がないけどね、


こんなブログにたどり着いて、こんな文章(現在1600文字)を読んでくれる人はきっと酷い人じゃない。



わかってもらいたくて書いてる部分もあるけれど、
そうじゃないと思う自分がいて、
やはりこれが私らしい生き方で、変わっていても、おかしくても、狂っていてもそれが私。




吉村明美さんの「薔薇のために」、大好きな漫画。このことはまた書くかもしれないけど、こんなに素敵に純粋に感じられる恋も愛も、綺麗過ぎて何度も読んでいるのに涙が出た。

私の目は汚れていて、今思うと簡単にわかることなのに、わからなかった。
見えなかった。
私は汚い。
綺麗な心でいようとしていたけれど、叶わなかった。


いつか本当の素敵な気持ちに出会えるように、綺麗な心だけはもう絶対に捨てない。透明でいたい。


風のような女の子になりたいな。